労働と民主主義

スチャダラが民主主義を問うておったので自分の中の一つの時代は終わった気がした。悲観的にでも客観的にでもなく、ただ老いを感じた。
毎日、「毎日」が進む。「毎日」という題名の手紙が毎朝届くように。中にはやることが書いてある。子供のこと、家事、仕事、食べて、祈り、良いシャンプーで頭を洗う。週末に買い物に行き、トイレットロールを大量に買う。連休にはキャンプをし、週末には映画を見、本を読み、それなりのお茶を飲み、旅行の計画を立て、文化的に振る舞うこと。仕事は楽しい。9年専業主婦をしてきた自分には夢みたいな日々。毎日新しいことを覚え、その日に忘れる。新しいことを知るたびに喜び、そして同時に恥じ、メリハリってこういう日々のことを言うのだなと感じる。私の次に来た人のために、勝手にマニュアルを作ったり。
目の前にある現実ばかり見る人を愚かだと思うし尊敬もする。本質はそこじゃねえだろと思うけど、本質なんてみんなどうでもいいのかも。本質ってなによね、笑うよね。本質を見ようとする行為を空想と呼んでいいかもしれない。今まで疎遠だったタイプの人間にこのクソと思っても、こんなのはわたしの長い人生になんら影響を与えないつまらない人物でしかないと思えばきっと難なく過ごせると思いながら水筒に熱いカモミール茶を注ぐ。
そう、ほとんどの人はわたしの長い長い人生になんら影響を与えない。それは休日用でも特別な日用でもなくなんでもない日常用のカモミール茶の水蒸気の一分子にも満たない。私の仕事は本当は明日もあさっても同じ手紙が届くように手筈を整えることだし、影響を与えるようなことなど許さないしもしあっても泣き寝入るだけだから誰も傷付けませんし。わかります?悲観的にでも客観的にでもなく。これによりきっといつかさらに良いシャンプーが買えるはず。オーガニックとか、ノンシリコンとか、なんかよう知らんけど、なんかよう知らんけどなんかいいからってくらいの熱意で、普段なら特別な日用に使うシャンプーを、日常用にするために働いてる。そんくらいの理由やけんさ。