Sunday Morning

カリフォルニアのサンタモニカビーチの近くで、二階建ての家の二階のテラスのようなとこでカウチに腰掛け、いかにも米国製の電話機の子機で、身振り手振り楽しそうに話をしていたおっさんをふと思い出す。このオフシーズンの平日の真っ昼間に働き盛りの男が何をビーチ沿いの家の二階のテラスでのんびりゆるゆると電話で話をすることがあるのかと思った。さすがアメリカやと思った。自由の国やと思った。働くも働かんもおっさん次第なんやと思った。なんの疑問も違和感もなかった。まるで映画のワンシーンのように、私の思う通りのアメリカがそこにあった。
今の私が何に恵まれてるかって、誰をうらんでも何の不平不満を言ってもすべては自分次第で自由にいつだってこの恵まれた環境に逃げることが出来るということ。私が幸せかどうかってきっと友だちは知らない。私がどう考えるかなんて誰も知らない。ただ結婚して子どもが二人いて、ステージをまっとうしている、それこそ幸せだと、そういうことしか知らないしそれ以外にない。いや知ってるのかも、そんなこととうに知ってるのかも、誰がどう考えて生きるのかなんてきっと取るに足らないことなのかも。
いつだって嫌味なほど幸せを演出出来る環境が整っている、そのクラッチの遊びを持っている、それが贅沢なのだ。上がる自由と下がる自由を二つ持っている、それが贅沢なのだ。
あのおっさんのことを思うとき、頭の中でヴェルヴェッツのサンデーモーニングが流れる。それは私が長いことサンデーモーニングをサンタモニカという曲だと思っていたからだった。
実に取るに足らない事実!